【小説・文学】『背高泡立草』―母の実家の納屋と島にまつわる話【第162回芥川賞】
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紙の本も読みなよ / A-key-Hit
『背高泡立草』古川真人 / 集英社
⇧2020/1/24発売。
第162回芥川賞受賞作です。
<かわいそうな風景とは>
我々は、人間以外の動物に対しても「かわいそう」と感じることが出来ます。
さらに生き物以外を目にした時にも、そう感じる瞬間があります。
例えば、
・壊れて遊べなくなったおもちゃ
・綺麗に盛り付けられたけど食べられることはなかった料理
・大切に履いていたいたけど穴が開いてしまった靴
などです。
これらは自分の日常生活に近いものですが、自分の生活とほとんど関係のないものまで「かわいそう」と思えることもあります。
ちょっと想像してみて下さい。
昔に建てられた木造の納屋があったとします。
長い年月の間に風雨にさらされ、屋根には穴が開き、トタン部分はサビだらけで、外壁には苔が張り付き、内部は湿気でカビ臭くなっています。
今では誰も使う者はおらず、周囲には雑草が大量に生い茂っています。
納屋はもう朽ち果てるのを待つしかありません。
この風景を目にした時、あなたはちょっとした寂しさを感じたり、「かわいそう」と思ったりしませんか?
この小説にはそんな納屋が登場します。
主人公たちは、休日を丸々かけて、納屋の周りの草を刈ります。
主人公たちは明るいですが、対照的に納屋は寂しそうです。
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<あらすじ>
主人公・大村奈美(20代後半)は、せっかくの休日を潰されて不満タラタラでした。
母(美穂)が従姉妹と一緒に、母の実家にある納屋の周りの草刈りに参加するよう強制してきたからです。
納屋は20年以上も前に打ち棄てられており、今や誰も使う者はいません。
奈美はそんな場所の草刈りをする必要性をまるで感じなかったのです。
当日の朝、奈美を車で迎えに来た美穂は、「あんまし草茫々やったら、みっともないじゃん」と言いますが、奈美は納得いきません。
誰も使わないのだから別に草茫々でもいいだろうと反論しますが、「放っておいたらかわいそう」という妙な理屈で押し切られてしまいます。
奈美は渋々車に乗りこみ、福岡から美穂の実家の長崎の島に向かいます。
奈美はなぜ皆そこまで納屋を気にかけるのか気になり、美穂や伯父や祖母に、納屋やその近くにある【古か家】と【新しい方の家】の来歴を聞きました。
美穂の実家の吉川家では、戦前は【新しい方の家】で酒屋をしていて、戦中に廃業になり、【古か家】に移り住んだそうです。
【古か家】を売った男は、その後に一攫千金を夢みて、満州に旅立ちました。
【古か家】のある島では、いつの時代も色んな者がやって来たり、出て行ったりしました。
江戸時代には、捕鯨でトドメを刺す役の「刃刺」の男が漁のために蝦夷に向かったり、
戦後には、難破した船から島の漁師たちが多くの人達を救い出したり、
少し前には、中学生の少年が鹿児島からカヌーでやって来たり・・・。
納屋の草刈りを文句を言いながら手伝う奈美と、納屋と島の歴史との対比。
過去からの流れを追っていくと、膨大な時間の蓄積の中に読者は寂しさを発見するでしょう。
※ちなみに背高泡立草の花言葉は「元気、生命力」です。
⇩セイタカアワダチソウ
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<まとめ>
母の実家にある納屋の周りの草刈りを、娘たちが休日にやりに行く話です。
草刈りと同時に、納屋にまつわる昔のエピソードが間に挿入されていきます。
それは江戸時代にまで遡ります。
この小説は、前々回の芥川賞受賞作『ニムロッド』(上田岳弘)のような現代的なテクノロジーが登場するわけでもないし、『1R1分34秒』(町屋良平)のようなスタイリッシュなスポーツが題材なわけでもありません。
前回の受賞作『むらさきのスカートの女』(今村夏子)のように、一人の主人公の心情をひたすら掘り下げるわけでもありません。
つまり、物語に分かりやすい派手さがないのです。
しかし、我々が忙しい毎日の生活で目をそらしがちな、「日常的に存在する寂しい風景」を思い出させてくれます。
「余計な事を思い出させるなよ」と思われるかもしれませんが、文学の役割は「読者を不安にさせること」とすれば、見事にその機能を発揮していると言えます。
だからこそ、視野を広げるキッカケになったり、
慌ただしい生活に疲れている方の、支えになってくれる作品かもしれません。
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