【小説・SF】『第四の館』―ユーモアと緊迫感は反比例する
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『第四の館』R・A・ラファティ / 訳:柳下毅一郎 / 国書刊行会
⇧2013年4月発売。
アメリカでは1969年に発表された作品です。
<あらすじ>
主人公のフレッド・フォーリーは新聞記者です。
彼は変な記事を書いてばかりいるので、上司にクビにするぞとよく怒られています。
まともな取材対象を選べと。
今回も超大物(国務長官特別補佐)のカーモディについての眉唾モノの話を持ってきます。
なんとカーモディは500年前から生きているのだというのです。
500年前の人物であるカー・イヴン・モッドと顔がそっくりで、彼が死んだという記録もなく、二人は同一人物であるという推理です。
さらなる補強証拠をフォーリーが話そうとしても、バカげているとして上司は聞き入れません。
まあ、当然ですよね。
そんな話はさっさとやめて、もっとまともな取材対象に今すぐ変更しないとクビにするぞと脅されますが、フォーリーはさらなる証拠を見つけるべく、取材を続行します。
その頃、別の場所では「収穫者(ハーヴェスター)」と自称する7人の人間たちによって世界を支配しようという陰謀が企てられていました。
彼らは人間以上の存在(=神)になろうとしていました。
彼らは力を合わせることで精神エネルギーを増幅させ、狙った人間の精神に彼らの思考を投影することができました。
簡単にいえば、テレパシーで他人を操ることができるのです。
操られた者は記憶を改竄され、なぜ自分がその行動を起こしたのか説明できません。
思想も彼らの都合のいいように変更され、以前からそういう主義主張だったと操られた本人は思っています。
彼らが不要だと判断した人間はどんどん自殺するよう仕向け、世の中を自分たちの理想の世界へと変えていこうとします。
実際に手を下すわけではないので完全犯罪です。
上記のフォーリーの妄想も、実は彼らに思考を操られた結果でした。
しかし彼は操られながらも反撃を試みます。
ダンテの『神曲』に
「深淵を覗くものは深淵からも覗かれている」
というフレーズがありますが、それと同じように、
精神接続のテレパシーによって他人を操ろうとする者は、接続した瞬間は操られる者からも接続されているのです。
果たしてフォーリーは陰謀を食い止めることができるのでしょうか。
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<著者の作風>
中二病全開の設定ですが、50年前の小説なので当時はそこまでやり尽くされた感は無かったのかもしれません。
現在ではベタな設定とはいえ、全編に渡る軽妙な語り口が読者を飽きさせません。
翻訳が上手いというのもあるでしょうが、どうやらラファティという作家がそういう作風なようです。
ユーモアにあふれた会話のやりとりが、ふざけ倒していて面白いです。
けっこう緊迫した場面でも、気の利いたセリフによって深刻さを感じさせません。
そういう意味ではマンガ・『銀魂』(空知英明)に似ているかもしれません。
両者のユーモア感覚はもちろん異なりますが、狙っている作品内の雰囲気は同じ方向性なのではないかと思いました。
「どんなヤバい状況でもとりあえずふざける」というスタンスは大好きです。
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<キリスト教の象徴?>
巻末の解説で、作品内に登場する怪物たちがキリスト教においてどんな象徴として扱われているかを知ることができます。
しかし、キリスト教徒ではない日本人にはイマイチピンと来ないはずです。
「へ~、そうなんだ。」と思う程度でしょう。
ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』を読んでいる時にも思いましたが、
ある宗教観や文化・風習が根付いている者たちにとっては、
特別な象徴である物質、概念、生き物、数字、出来事、人物であっても、
そうでない者にとっては、どうということはないものであることがほとんどです。
自分たちの文化圏内での象徴的なものを、世界共通の至上のものとして扱うことは、
その文化圏外の人々から見ればときに滑稽で理解不能だったりもします。
しかし、世界中の人間の誰もがそういう行動をとっているはずです。
日本人がキリスト教やイスラム教を信仰する人たちの行動をときどき理解できないように、海外の方からすれば、日本人の行動原理で理解できない部分があってその自縄自縛具合が滑稽に見えることもあるでしょう。
でもその理不尽なルールが自分を支えているので、大切に扱うべきだと思っています。
自分の価値観が脆弱であることを実は無意識に自覚しているからこそ、人は自分を支えるための根幹であるアイデンティティを必死に守ろうとするのかもしれませんね。
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