【小説・SF】『ダールグレン』―たまには歯ごたえのある小説を
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紙の本も読みなよ / A-key-Hit
『ダールグレン』サミュエル・R・ディレイニー / 訳:大久保譲 / 国書刊行会
↑真っ黒な表紙に、黒い文字でタイトルと作者名が入っています。
カッコイイのですが、かなり見にくい(;^_^A
デザイナーさん、攻めすぎでしょ。
<滅びの都市ベローナ>
主人公の青年は、目の前に迫る都市・ベローナへ向かって歩いていました。
青年は自分の名前が思い出せません。(他の記憶はある)
なぜ自分がそこへ向かっているのかも分かりません。
ベローナから逃げてくる人々とすれ違い、偶然にも武器をもらいます。
(もう必要ないからあげる、と言われます。)
ベローナは廃墟の街でした。
何が起きたのかは不明(飛行機墜落事故?黒人の暴動?)ですが、住人の多くは逃げ出し、残った人々は無人の店や住宅から食糧を盗んで生活していました。
警察もいないので治安は悪く、ゴミ回収なんてないので公衆衛生も最悪です。
トイレも機能していないのか、皆、排泄行為は自分の部屋から窓の外へします。
病院もないので怪我したり病気になったら自力でなんとかするしかありません。
そして霧がいつも漂い、日光も差さない、灰色の世界です。
一瞬、夜の雲間から見えた月は2つありました。(どちらかが偽物?)
新聞は発行されているものの、日付や西暦もバラバラで、曜日も毎日ランダムという有様です。(日曜は7日に1回はやってくるけど、木曜はあまりやってこない。)
今日が何曜日なのか誰も分からないので、新聞を見て判断しています。
この捉えどころのない世界観に読者はまず面食らうことでしょう。
序盤を読んだだけでは、どうにも状況が把握できないのです。
SFなのか、ファンタジーなのか、文学として読めばいいのかも、この時点ではハッキリしません。
<ベローナに到着した青年は、タックという青年と出会います。>
タックは青年に「キッド」という仮の名前を付けてくれます。
さらにタックは街を案内してくれて、互助グループまで紹介してくれます。
(この都市に来たばかりの人間は、一人で生活するには分からないことだらけだろうという配慮です。)
しかしキッドは互助グループに入ることなく、公園を寝床にして暮らす道を選択します。(そういう人も結構いました。)
その後もキッドは一人で色んな場所を訪れ、色んな人と出会います。
仕事を紹介してくれる人とも出会いました。引っ越しのバイトです。
ある一家が、都市からは離れたくないけれど、治安が悪いのでマンションの上階に引っ越したいとのことでした。(下層階は不審者が騒がしいので落ち着かない。)
その一家の奥さんは家から一切外出することはなく、崩壊してしまった都市の現実を見ないフリをして家庭内を円満に回すことだけに専心していれば、いつか以前までの世界が戻ってくるのではないかと信じています。
キッドは彼女の現実逃避する姿にうんざりしつつ、賃金をケチられながらも引っ越しの荷運びの仕事をするために、毎日せっせとその家に通います。
この時点で、この作品が出版された当時のアメリカの世相を皮肉る小説なのかな?という思いがよぎりましたが、どうやら違うようです。
<キッドは都市に入ってから、密かにメモ帳に詩を書いていました。>
ときどき文中にその詩が挟まれるのですが、日記のような情景描写のつもりで最初は何気なく書いていました。
ある日、都市の中で有名な詩人に出会います。
その詩人の哲学(作品論)を聞いて触発されるように、キッドは「自分も詩人になるぞ」と考えるようになります。
引っ越し一家の奥さんに自作の詩を読むようにせがまれたりもします。
この時点で、キッドの冒険を詩的に描いた小説という流れになるのかな?と思いましたが、どうやら違うようです。
<色んな要素が詰め込まれた小説です。>
トマス・ピンチョンと並び称される作品なだけあって、なかなか強敵です。
たしかに読んでいるときの感触は似ています。
一文一文は難しい言葉を使っているわけではないので、容易に理解できるのですが、
俯瞰して1章分や全体を眺めてみると、捉えどころがない形をしているのです。
ガチガチに硬いわけでもなく、フニャフニャに柔らかいわけでもなく、
硬度や弾性が測定できないモワモワした感じといえばいいのでしょうか。
目茶苦茶で意味が分からないわけではなく、計算された著者の意図が物語の背景に通底しているのが多少は感じ取れるので、荒唐無稽というわけではないことは伝わってきます。
しかしそこから先の理解が非常に難しいです。
色んな解釈の仕方がありそうです。
それを面白いと思うかは、人を選ぶかもしれません。
<世の中は親切な本ばかりではありません。>
何か裏付けがあるわけではありませんが、自分にとって簡単な本ばかり読んでいると、知的レベルが下がっていってしまうのではないかと僕は思っています。
知的レベルを下げずにいる(むしろ上げていく)ためには、自分が分からない(知らない)ことが含まれている本にも挑戦していくしかありません。
(一説には、1冊の内、未知の部分が3~4割、既知の部分が6~7割くらいの本が最も興味をもって読むのに適しているそうです。)
ところで「ミステリー」というものは、読者に対して最も親切なジャンルです。
「謎はこれですよ」と探偵が整理してくれて、誰でも分かるように懇切丁寧にトリックを解説してくれるからです。
現在日本で発売される新刊小説では何かしらミステリー要素を加えたものが多いです。
(謎があった方が物語に読者を牽引しやすいからだと僕は思っています。)
つまり、著者が読者に対して親切になっているんですね。
「売れる方法論」としてエンターテイメントはそういう風に作られます。
問題は、そういうものばかり読んでいると、いつしか親切な小説が当たり前だと思ってしまうことです。
そして、ちょっと不親切な小説に出会ったときに、誰も丁寧に説明解説してくれないので理解できない危険があるということです。
「不親切」と書きましたが、それは親切な小説との相対的な表現であって、実際は別に不親切なわけではありません。
本の著者は別に「分かる人だけ読んでくれればいい」というスタンスで書いてもいいのですから。
そのスタンスもレベルは様々で、
「10人のうち3~5人くらい分かってくれたらいい」とか、
「100人のうち1人の理解者がいればいい」とか、
「〇〇という前提知識を理解している者だけに読んでもらえればいい」といった階級制限を設定してある本が世界には無数にあります。
というかほとんどの本がそういうものです。
小説だけが、そういう前提知識を持っていなくても楽しめる(理解できる)ジャンルだと言っていいかもしれません。
この『ダールグレン』は、前提知識は必要ありませんが、親切には書かれていません。
でもたまには「親切じゃない」小説にも挑戦しないと、自分の想像力や推察力が衰弱していきます。
歯ごたえのあるものを全く食べないと、アゴの筋力が低下していくように。
かと言って、書店で新刊本を適当に手に取っても、おそらく親切に書かれている本がほとんどです。
じゃあ知性の筋トレのために何を選べばいいのでしょうか。
それには、この小説がうってつけかもしれません。
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